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2025-06-10

アルチュール・ランボーの故郷に行くオタク Musée編(もはや旅行は関係ない)



※旅行記ではなくアルチュール・ランボーの人生のメモです。



Musée Arthur Rimbaud ランボー美術館(というより、博物館?記念館?)
生家の通りからはっきり見えるところに建っています。
てっきりランボーが住んでいた家だと勘違いしてましたが、1954年、ランボー生誕100周年のときに回収されたようです。
多分この建物自体はランボーの時代からあったと思われる。

なんでもない週末の割に、お客さんはまあまあいました。街自体観光客はすくなめで、サイクリストが多い印象でしたが、世界から私みたいなオタクがたまに来るんでしょうね。(観光案内所のお兄さん曰く、アジア人はほとんど見ないとのこと。それはそう。)


水車小屋なので、ムーズ川と対岸の小島をつなぐように建っています。下の展示室に移動する時に川が見えます。
とても大きくて田舎らしいキレイな川でした。
ドラエさん曰く、この川の増水を見て酔いどれ船=海を想像したのではないかとのことです。


内部。最上階から下がっていく、一方通行の作りです。
受付の人が説明してくれたんですけど全然言葉わかんなくて、最上階見ないまま退出しちゃったので再入場しました。作りが悪い(# ゚Д゚)

しかし中は大変見ごたえがあり、ChatGPTに翻訳してもらいながら見ていたのでたっぷり1時間は滞在してしまいました。
(※フランスの屋内は非常に電波が悪いんですが、ここは電波よくて助かりました!!!!!)


Grenier(屋根裏)

Dans un grenier où je fus enfermé à douze ans j’ai connu le monde.
12歳のとき閉じ込められた屋根裏部屋で、私は世界を知った。
スタートは屋根裏部屋からで、ランボーの詩が様々な言語で朗読されているのを聞く空間。

Rêveries(夢想)
ランボーの少年時代の展示。

ランボー家、彼らの写真もまたほとんど存在しないようです。

ヴィタリー。17歳で死去。ブリュッセル事件後、ロンドンで一人暮らしをするランボーを母と一緒に訪れる。その様子を書き留めた日記は兄同様文才に優れているのがうかがえる。http://rimbaud.kuniomonji.com/jp/lettres/donnees_vitalie_jp.html


末の妹イザベル。絶筆し放浪する兄と文通を続け、病で帰省した彼を献身的に支えた。(うしろはランボーファンの旦那さんかな

敬虔で厳格な母ヴィタリー。ランボーが家出した際は屋根裏部屋に閉じ込めた。
また、ヴェルレーヌと不和の際には、ヴェルレーヌ宛に励ましの手紙を送っている(なんでやねん)


ロサ学院での写真(後にシャルルヴィルに転校)。
最前列左から2番目がランボー。兄フレデリックと写っている。

次はランボーにまつわる人々。

ランボーの親友、エルネスト・ドゥラエ。公務員の子として生まれ、公務員として安定な生活を送った。ランボー没後はエッセイを寄稿したり、彫像を設置したり、積極的に取り組んだ。
なんて優しい顔をしてるんでしょう!! ドゥラエもメジエール出身なのに、ここぐらいにしか記述がなかった… どこの国でも文献が少ない男、それがドゥラエ。(まあ本人自身がランボーの文献だから仕方ないのか?)


恩師、ジョルジュ・イザンバール
(1)21歳の時に半年間だけシャルルヴィルの学校で教鞭を振るう。ランボー(15歳)と親しくなり、様々な援助を施す。
なおヴィクトル・ユゴーのレ・ミゼラブルをランボーに貸し、それを知った母親からクレームを入れられた。だが、実際に貸したのは宿題の参考にと貸した『ノートルダムドゥパリ』であり、夫人は完全に的はずれなモンスターペアレントであった(このことから、いかに厳しい母親だったがわかる)
(2)無賃乗車で捕まった彼を釈放し、育ちの街・フランス北部ドゥエ(Douai)で歓迎する。ランボーはそこでイザンバールの友人であり詩人ポール・デメニーと知り合い、彼にいくつかの詩を託す。
→このイザンバールとデメニー宛に送られた手紙が、かの「見者(透視者)の手紙」である……

イザンバールはたったの6歳違いなので、ランボーにとっては「先生」より「ひょん」って感じだったらしい。
(ちなみにパリに引っ越したあとはあのルノワールと隣人になったそう。世界が狭すぎる)


ポール・デメニー。詩人。ランボーと出会った当時は26歳。
イザンバールの同郷。すでに詩人であったため、ランボーから出版用の現行を託される。
が、「それやっぱなし!!燃やしといて!!!」と言われるも燃やさず残しておいた、素晴らしい先見の明がある御方。
これらの原稿は後に「ドゥエ詩帖」として世に出ることとなる。

ーー

ランボーとドゥラエが学校に通っていた頃(1865-1870)に普仏戦争が起き、プロイセン軍によりドゥラエの実家は燃えてしまう(永沢君
その中でランボーとドゥラエは、敵将ビスマルクを批判した詩を1870年11月25日地元新聞に掲載。匿名(Jean Baudryの偽名)。


戦争により学校が休校になっていた間、ランボーとドゥラエは近所の森や農場で遊んでいたそう。
その後戦争が終わると、ランボーはパリ・コミューンに加わるべく、徒歩(ヒッチハイク)でパリ向かったらしい・・・。
このパリへの逃亡はその後も何回か繰り返された模様。


すべてドゥラエによるスケッチ。
①は1871年のロン毛だったころのランボー。母親の「まともに育って普通に結婚してほしい」という願いとは裏腹に、街では完全に変人扱いされていたらしい。
②その2ヶ月後の、街の人を安心させるために髪を切ったランボー。



Révolutions(革命)

イザンバールという後見人がいなくなったランボーは、元教師経由で共和党派のシャルル・ブルターニュと仲良くなり、様々な支援を受けることに。
とりわけ、パリに行きたいというランボーの望みを、ポール・ヴェルレーヌを紹介するという形で叶えたのは彼だった。

(シャルルさんはポールから友人の印としてインク壺を貰ったらしい。シャルルはそれをランボーに譲り、シャルルヴィルを立つ際にドゥラエに譲られた。なお、ドゥラエはそれを放り投げて遊んで普通に落として割ったらしい。←なんで?)

1871年8月、ランボーは正式にパリに到着。ポールとは駅集合だったが、勝手に自宅にお邪魔していた。
その後は高踏派詩人のサロンに参加するも、その過激な性格からどんどん疎まれるようになる。


1871年10月頃の、ポールの友人エティエンヌ・カルジャによるランボーのポートレイト。
ランボーがある招待客に対して見せた態度に激怒したカルジャは、彼に黙るよう命じたが、ランボーはそれに杖剣(つえじょうの剣)で応じた。
この事件により、カルジャはその場でネガを破棄し、元の写真は失われた。
らしい。そういうとこだよ。



アンリ・ファンタン=ラトゥールによる高踏派サロンを描いた「テーブルの片隅」の習作。
左端がポール、ランボー。本家はオルセー美術館所蔵。
(一番右の花のところは、本来なら詩人アルベール・メラが描かれる予定だったが、ランボーのことが嫌いだったため並んで描かれることを望まず、花束に置き換えられた…らしい。ランボーはメラのことを認めつつも、彼を揶揄した詩を作ったためお怒りを買った。当然である)

その後1872年6月、二人はロンドンへ逃避行。

このスケッチは後年のポールが記憶をもとに描いたもので、1872年6月当時のランボーとされる。(またロン毛になってる…)


1873年7月、かのブリュッセル事件に使用された拳銃……ではなく同じ型のもの。
ブリュッセル事件については、正直ポールのことが理解できないのでここでは割愛。


あるベルギー人の描いた、負傷して寝込むランボーの肖像画。当時に描かれたものかどうか不明で、推定1873とされている。

ヴェルレーヌは懲役2年、ランボーは先祖の土地があるロッシュ村へ戻り、「地獄の季節」を書き上げる。
Une Saison en enfer(『地獄の季節』)初版。
ベルギーの出版社で500冊だけ自費出版したものの、支払いが滞ったため半数近くは倉庫に眠っていた。

その後、詩人ジェルマン・ヌヴォーと一緒にロンドンに滞在。
(また新しい男が出てきた…と思ったけど、もともとポール含めての知り合い。ランボーからイリュミナシオンの清書を任され、その原稿を印刷したのはこの男!!)

(イケメン)

ジェルマンがいなくなってからも、ランボーはしばらくロンドンに滞在。
英語教師の求人広告を出したり、母と妹ヴィタリーをロンドンに呼び寄せたりする。

1875年、ドイツ・シュタットガルドに滞在していた際、ポールと再会。イリュミナシオンの原稿を渡す。
そこから詩を捨て、放浪。


Voyages(旅)



ランボーの滞在地の年表。1875年から5年の放浪の後、アデンとハラールに住処を見つける。


ランボー唯一の遺品である日用品。地図帳は子どものときから使ってたものらしい。。。
これの他に4冊の本を持ち帰っており、それは詩でも文学でもない、建設や大工などの技術書だった。


1884年に、アルチュール・ランボー名義でパリ地理学会紀要に掲載された『オガデン報告書(Notice sur l’Ogadine)』。
(オガデンという部族に関する調査報告らしい。。)


1883年頃の石がれきの上での自画像、家のテラスでの自画像

旅する間に、様々なヨーロッパの冒険家・探検家とも知り合い、共に旅をした。
その放浪の間にも家族とはしきりに文通していたランボー。
1889年(ランボー33歳)頃から体を病み、物品や薬を送るように頼む。

1891年5月にはフランス・マルセイユに戻り、右足の切断手術を行った。
7月2日、妹イザベルへの手紙。
Est-ce à cause du long séjour au lit, ou du manque d’équilibre, mais je ne puis béquiller plus de cinq minutes sans avoir l’autre jambe congestionnée.
長く寝たきりだったせいなのか、バランスのせいなのか、松葉杖で5分以上歩くともう片方の脚が充血してしまう。
Aurais-je une maladie des os, et devrais-je perdre l’autre jambe ?
私は骨の病気なのだろうか? もう片方の脚も失うことになるのだろうか?
J’ai très peur, je crains de me fatiguer et j’abandonne les béquilles.
私はとても怖い。疲弊してしまうのが怖くて、松葉杖を使うのもやめてしまった。

7月23日、マルセイユから退院後、妹イザベルに付き添われロッシュ村に帰省。
8月23日、またアデンに向かおうとイザベルとマルセイユまで移動するも叶わず。
入院の末、11月10日、マルセイユの病院で全身転移癌により死去。37歳だった。

(略)あの人はあのハラルで、文学上フランスで成功を収める可能性のあることを聞き知っていたにもかかわらず、青年期の作品は「くだらない」のだから、続けなくてよかった、とおもっていたのでした。(イザベル)
イザベルのエッセイ読んでほしい(T_T)


というわけで、ミュゼのランボーに関する一部を、参考文献とともにまとめました。ウィキペデイア読んだほうが早い。

写真には撮ってないですが、ランボーに影響されたアート作品やトリビュートの展示がたくさんあって、史実に関わるものは6割くらいだったと思います、が、日本では手に入らない情報が多くてとても面白かったです!!


ジャン・コクトー先生のランボーの絵。


ポール・ヴェルレーヌのデスマスク←なんで?

ランボーの家と墓地はまた次の記事にします。終わり。

参考文献
アルチュール・ランボー. (1996). ランボー全詩集 (宇佐美斉, Trans.; 8th ed.). 薩摩書房.
E・ドゥラエー他.(1991). 素顔のランボー (宇佐美斉, Trans.; 1st ed.). 薩摩書房.
井本元義. (2019). 太陽を灼いた青年 アルチュール・ランボーと旅して (1st ed.). 書肆侃侃房.
5 Eunhasu Evans: 2025 街歩き編: https://e-evans-9.blogspot.com/2025/05/blog-post.html ※旅行記ではなくアルチュール・ランボーの人生のメモです。 Musée Arthur Rimbaud ランボー美術館(というより、博物館?記念館?) https:...
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