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一人の男がいる。舞台に上がった彼はマイクを見つめる。壁を埋め尽くす落書きが男の視線を奪う。彼はすぐに歩き出し、ギターが置いてある後ろの席へ移動する。また別の男が舞台に上がる。彼はマイクを掴んで歌を唄う。たちまち、何かが気に入らなかったのかその場から逃げてしまう。ギターを弾いていた男がひとり、舞台を守る。
ここはクラブ「ドゥバイ」。二人の男はウビンとボナという名前で観客の前に立ってる。歌を唄う者もギターを引く者も、どこか疑わしい会話を繰り広げる。そうしてミュージカル「トレイスユー」が始まる。
「ロックバンドの物語だ。ここに一人の女性を置き葛藤が始まるのだが、その葛藤の中で物語が進む。」そう説明した俳優・ノユンと作品に関する話を伺った。
#また舞台へ、「トレイスユー」がくれたチャンス
ノユンにとって「トレイスユー」は公演以上の意味がある。ミュージカル「bare the musical」以降の次回作が決まるまで、彼は数多くのオーディションを受け、その度に満足できない結果に挫折を味わった。そういって凹み泣いているわけにはいかなかった。最後の瞬間までベストを尽くし舞台に上がる準備をしたが、時間は虚しく過ぎ、復学の時が近づいた。
「本当に大切な作品です。「トレイスユー」でじゃなかったら、復学して違う仕事を頑張ってたと思いいます。多くのことを学ばせてくれる作品でもあります。それまで舞台に立てなくて、また俳優として舞台に上がることになり、これ以上無いぐらい貴重な時間を過ごしています。今月は公演が多くてとても忙しい月になると思いますが、それさえも有り難いことにやりきれる気がします。本当に楽しいです。公演2時間が大切で、とにかくやり遂げたいという気持ちがあるので、より必死に臨んでいます。本当に久しぶりの感情です。」
過ぎた時間は忘れられない思い出になった。感謝に満ちたのあの日の記憶に、ノユンは目を輝かせた。当時、自身がウビンとして舞台に立つのか、ボナとして観客に会うのかわからなかった。配役が決まっていない状態でオーディションが進められたためだ。今はウビンとしてノユンに出会っているが、彼はボナとして舞台に立つ自身の姿も想像したという。
「実は、最初はボナを演じることになると思ってました。だからボナでしばらく練習もしました。僕がボナを演じたら、四次元、五次元的ではない、ムンソンイル俳優が演じるボナと似た感じになると思います。ムンソンイル俳優は素直で落ち着いたボナを演じています。僕が演技したら、結末は違うと思いますが似たような感じになるかなと思います。いつか機会があればボナもできると思いますが、とりあえず今はそれを考える暇が無いです。ウビンをちゃんと演らなきゃいけないから(笑)」
※四次元=不思議ちゃん、変わった人の意味。五次元はそれ以上におかしな人のこと。
今回の公演でノユンはチョンドンファ、キムデヒョンと共にウビン役を担った。ウビンの中で一番若い俳優として注目を浴びている。彼の年齢を聞くと、ウビンを演じてきた俳優とはハッキリと違うキャスティングだということを実感する。ノユンもこのことを認めた。「役に普段の姿をたくさん込めていると思う」という言葉は、自身がウビンを引き受けた理由を代弁している。
「ボナの場合は台詞にもあるように『完璧なキチガイ』を演じなければなりません。でもウビンは違います。ボナを見守りながら、時には操り、時には包み込んであげもします。ケアする役割です。ウビンを演ることになった大きな理由は、とにかく、見た目のせいだと思います。僕は年齢は若いですが成熟して見える外見です。そう思うと、顔も一役買ってると思います。演技する時、僕の低い声がウビンの台詞のトーンとピッタリと合ってるんじゃないかなと思います。」
「トレイスユー」は既に4回目のシーズンを迎えた。歳月とともに多くの紆余曲折を経て、作品は毎シーズン観客の愛を受け口コミになっている。俳優としてノユンはウビンというキャラクターを正反対に表現できるという点を魅力として上げた。特に普段の姿が溶け出してしまう程の劇中人物により心を奪われた、と説明した。忘れることなく毎シーズン劇場を訪ねる観客に通じる作品の魅力とは何なのか。
「最初は理解が難しいストーリーです。僕もやっぱり台本を初めて読んだときはそうでした。何を言っているのか分からなくて。二、三回見てみると大きな枠組みが脳内に描かれて、劇が理解できました。また俳優たちが作っていくディテールが本当に多いのですが、それも劇を細かく埋めていってると思います。俳優が望めばエンディングを違う方に持っていけるのも魅力ですね。結末が違えば、見る方としても劇が全然違うように感じられます。時にはこの俳優に『騙された』と思うこともありますよね」
#結末の力、その魅力にハマる
結末は物語の花だ。結末を見るために観客は120分という時間、客席に座り舞台の上で繰り広げられるストーリーを追いかける。エンディングの変化は事前合意が叶った状況でのみ可能だ。結末だけ変えて終わりではない。結末に応じて話の筋も細かい修正作業を経なければならない。ノユンは、それがまさに「トレイスユー」の魅力だと声を上げた。
「公演前から考えます。どうやって物語を進めていけば、僕たちが考える結末とピッタリ合うのか。それが一番面白いと思います。俳優たちの意志で結末を変えていけるということ、また見ている観客が感じて解釈するものによって結末が変わるということ。だから観客と俳優、皆が魅力を感じられる作品なんだと思います。」
大きな枠組みは決まっている。その中で自由に遊ぶことのできる自由が保証されている。自由には責任が伴い、時にはその責任感が負担になることもある。俳優の裁量によってその日の公演が変わるため、評価がより厳しくなる。ノユンはこのような負担感を自ら体験しながら、観客が入れた努力に、最大限恩返しできるよう努めている。
「観客はお金を出して公演を見に来ている方たちです。それぐらい僕たちがちゃんとしなければならないと思います。特にクロスペアで公演するときは特に厳しいです。突然のキャステイング変更でクロスペアとして舞台に上がったこともあって。僕は3人のボナすべてに会いました。3人とも本当に違います。ムンソンイル俳優のボナに合わせていると、他のボナに会う時はとても集中してから、疲れ果てます。『ちゃんとできたか…?』としばらく考えてしまいます。その瞬間、正しい絵とエナジー、感覚を伝えられたら十分に僕たちが望んだことが表現できると思います。」
回を重ねるごとにノユンは成長した。舞台に適応し、観客と親密度を形成しながら、ある程度の余裕も身につけた。今一度、彼は「劇場に入ってきて、ドレスリハーサルをするまでは毎日が大変だ」と言いながら過ぎた日々を思い出した。舞台ではない稽古場で進む練習は、それこそ茫々たる大海原に一人残された帆船のようだった。どのような感情で演技をすれば良いのかすらもピンと来なかったノユンは、リハーサルを通じてフィードバックをやり取りしながら少しずつ勘を探していった。
「数日間で完璧に勘を探すのは無理です。もちろん今も同じです。誰も完璧に離れないと思ってます。他の俳優のように仲間がいるわけでも無く、舞台でのノーハウが多いわけでもないです。そうやって舞台に立つのは大変だと思います。足りなさを埋めるために努力しています。僕だけのディテールを探して、舞台を埋めることが目標です。ずっと挑戦して、試して、その中でベストを探して作っていかなければならないと思います。」